安楽死制度化を望む仲間の会

安楽死は基本的人権です。日本で安楽死が認められるよう同志と歩んでいきたいと思います。(produced by 青源凝四=横井宏英)

安楽死反対論に関する批判的考察① 反対論の典型的なロジック

安楽死反対論の主張はいずれも詭弁か、患者の現実的な状況から乖離しているので、それらをお浚いし、適宜別稿で掘り下げたいと思います。

1.「死ぬ権利よりも生きる権利を…」?

 ALS患者の嘱託殺人事件等を受けて国会議員の船後氏等が発言している内容です。基本的に「生きる権利」に関しては、今回の患者が願ったのとは逆に、ALS患者は死ぬ事を選択させられているわけではないので、生きる権利が剥奪されているわけではなく、誤謬と思います。収入補償についても、障害年金と保健医療の給付がありますので、この点に関する指摘ではないと考えられます。

 医療技術や治療法・苦痛緩和開発について実現できていないのは、 ALS患者の生きる権利が蔑ろにされているからではなく、人類の叡智の限界によるものです。患者数の多い末期がんでも克服は難しいように、必ず死ぬ生命にとって医療の限界というのは当たり前のものとして至る所に存在します。

 よってALS患者の悩みというのは、上述のような前提を全て理解した上で、悪化する苦痛と障害に対し、それらに耐え、やり過ごすだけで人生の時間が経過するのを是としたくないが悪夢から退場できないということなのです。緩和手段があると言いますが、多くの場合付け焼き刃で、本質的に問題を解決するものとは到底言えません。よって「死ぬ権利よりも生きる権利を」というのは間違い以外の何物でもないのです。

 

2.「難病患者が自らの苦痛を回避するためではなく、身内や社会等への負担を理由に安楽死を選んでしまう」?

この論法も頻繁に障害者団体や難病患者団体から患者の声であるかのように出されるものです。これは患者の意思決定を軽んじる主張です。

 まず大前提として、仮に「身内や社会等への負担を理由で安楽死を選ぶ人」がいたとして、それを理由に耐え難い苦痛を味わっている人が楽になることを妨害する権利は誰にもありません。「身内や社会等への負担を理由に安楽死を選ぶ人」が正当な判断をできるようにすることがすべきことであり、安楽死の本来の趣旨に沿って苦痛から逃れようとする人の手段を経つことではないはずです。「身内や社会等への負担を理由に安楽死を選ぶ人」の可能性を理由に安楽死を許可しないことは、「事故が起きるから自動車を禁止する」「凶器になるから包丁を禁止する」というのと同種の理屈で極めて稚拙で、熟慮を重ねて合理的な判断をしている患者に無責任であると言わざるを得ません。

 「身内や社会等への負担を理由に安楽死を選ぶ」という判断が本当に間違っているのかということも問わなければなりません。全てのALS患者や難病患者等が苦痛を忘れて希望を感じられるよう快適に暮らせる環境を実現するということは、技術的にも費用的にも非現実的であり妄想の世界です。自然界の動物は衰えれば朽ちるように死んでいきます。人間も、身の回りの事を最低限できる形で生きたいというの自尊心と本能に関わることです。その感情を無視し、「管や装置に繋がれた状態で生きるのは望まない」ということを許さない、というのは拷問と大差ありません。苦しみを最小化する自分の死を自ら意思決定するという当たり前の事をさせない、というのは文明を発展させてきた人類の方向性と矛盾し、退化と考えられます。