安楽死制度化を望む仲間の会

安楽死は基本的人権です。日本で安楽死が認められるよう同志と歩んでいきたいと思います。(produced by 青源凝四=横井宏英)

安楽死反対論に関する批判的考察② 反対論の壮大なる矛盾

前回、安楽死反対論の典型的なロジックの誤りを確認しましたが、今回は別の角度から安楽死反対論の脆弱性を確認したいと思います。

1.社会的配慮(=自己犠牲的精神)礼賛主義との矛盾

「患者等が社会的配慮から安楽死を選択するのはまずい」というのが安楽死反対論の代表的な主張ですが、現実社会には逆に、社会制度として社会的配慮を強いたり、社会的配慮を高く評価したりするものになっている事がいくらでもあります。

 例えば目下、世界の圧倒的な問題になっている新型コロナウィルス関連では、イタリア等の医療崩壊を起こした国で、身体条件で生存能力の低い高齢者や病人よりも、高い若年者に優先的に人工呼吸器が割り当てられるような事が当たり前に行われました。日本でも、医療機関が逼迫する中、「私は人工呼吸器を他の方に譲る」カードのようなものが考案され、倫理的に良いものとして位置づけられています。こうした傾向は自己犠牲礼賛主義とも言えるでしょう。

 ALSなど難病患者が「社会的配慮」によって安楽死を選ぶ行為もこれと何ら変わりません。そして死にゆく際、呼吸困難等の苦痛を「存分に」味わって逝くのは流石に勘弁して欲しい、という事でせめて安楽死薬を投与してくれと最小限の主張しているだけです。つまり、耐え難い苦痛から逃れたいという理由ではなく、反対論が根拠として挙げる「社会的配慮による安楽死」でさえ、一般的な社会基準と整合するのです。

 仮に反対論者が、「社会的配慮による安楽死」を否定するのであれば、例えば先の医療の優先順位や「譲るカード」についても反対の立場を採用するのでなければ自己矛盾しています。

2.患者団体が患者のニーズに応えない矛盾

難病患者が耐え難い状況を脱するための安楽死制度化が議論に上がる度に、最も反対するのが驚くべきことに患者団体です。

 患者団体が持ち出すロジックが上記及び前回記事で論じた「社会的配慮による安楽死選択」の懸念ですが、一方で確実に存在する「難病患者が耐え難い状況を本質的に脱するために安楽死をしたい」という当たり前のニーズに全く応えらておらず、そうした患者を全面的に無視する形を採っていることは、患者団体のあり方として矛盾しており、強い違和感を覚えざるを得ません。

 医療の限界は至るところにあり、特に治療法のない難病において、生存している限り耐えなければならない苦痛や制約を十分に取り除く事は到底不可能です。そうした状況を認識しながら、十二分に情報を吟味した患者が合理的判断に基づいて安楽死を希望する状況を肯定しないのは、患者に対して不義理であるという他なく、何のための患者団体なのか解りません。

 患者団体であれば、患者のニーズに応える安楽死の導入を主張しつつ、患者の意志が不当に歪められているというケースに対して手当する方法を考えるのが本来あるべき姿といえます。安楽死の意向は自己に関する決定の問題ですから、その決定権が尊重される事がまず重要であり、決定の適切性を懸念するなら手続きでカバーすることを考えるべきなのです。

 患者団体は一刻も早く、患者のための団体になるべきです。