安楽死制度化を望む仲間の会

安楽死は基本的人権です。日本で安楽死が認められるよう同志と歩んでいきたいと思います。(produced by 青源凝四=横井宏英)

安楽死反対論に関する批判的考察③ 渦巻く嫉妬心

アレルギー症状としての反対論

特定のテーマがクローズアップされる度にアレルギー的に多くの人が反対する時は、多くの人が反対する根底に嫉妬心が隠れている事を疑うべきです。今回のALS患者の事件に際しても、まるで「安楽死が制度化されては困る」と言わんばかりに、各方面から一斉に安楽死反対論が出ました。実は安楽死制度化についても、とても褒められたものではない嫉妬心が、多くの反対論者の根底にあると感じられてなりません。

安楽死はどこでも狭き門 

まず前提の確認ですが、致死量を超えた薬剤投与による安楽死は本当に「安楽」なのかという議論はあります。確かに、究極的には安楽死で死んだ人に安楽だったか確認するすべはないので、絶対的な安楽が保証されているわけではないのは言うまでもありません。しかし、全身麻酔や鎮静下の検査を受けた方であれば、適正に薬剤投与量がコントロールされた安楽死はそれらの延長線上にあると想像を働かすことができ、意識的な痛みを最小限に抑えながら死を迎えられる蓋然性は高いと認識できるかと思います。多くの安楽死反対論でも「実は苦しいはずだから安楽死反対」という論調は少ないです。

 この前提に立って、日本で安楽死が可能になった場合を考えます。海外の安楽死制度に関する報道でご存知のように、安楽死が合法化されたからと言って誰でも安楽死を受けられるわけではありません。多くの場合、症状の強い難病や末期がんなどかなりの厳しい要件に該当する事が求められます。となると当然ながら、日本で安楽死が制度化されても、実際に受けられるのはごく一部の人たち、という事になります。ここに強い嫉妬心が引き起こされる要因があるのです。この時、「嫉妬心」とは、本人が自覚的でない場合も多いということに注意する必要があります。ある言動の背景に嫉妬心があるという状況は、分析してみて初めて解る構図になっている事が多いのです。

普通の死と安楽死

当然誰しも、死ぬ時にはできるだけ苦痛の少ない安楽な形を望みます。敢えて「苦しんで死にたい」という人はそういません。しかしながら、大多数の人が現実的に辿る病死では、自信をもって「安楽に近い死」と考えられる状況は極めて珍しいといえます。例えば天寿を全うしたような老衰の場合、本人は恍惚な状態で安楽と言えないこともありません。しかし総合的に見れば、誤嚥性肺炎を起こすなど、本当に達観していない限り安楽だと評価し切るに至るには難しいものがあります。

 そのような状況、つまり多くのそれなりに健康だった人でさえも死ぬ時はきつい状況がある所に安楽死が制度化されるとどうなるでしょうか。難病患者や末期がん患者など、健常者が何としても避けたいと考えるポジションに立っている人たちが、安楽死の選択可能性という面では一転して有利な立場になります。多くの人は、自分が難病患者や末期がん患者の状況に置かれた想定では安楽死の必要性や合理性に思い至ることができても、自分が実際にそうした病気になる可能性が相当程度あると思えない限り、安楽死制度が設けられても自身の相対的な便益は高まらない(難病患者や末期がん患者との関係性で低下する)と感じます。「自分は普通に苦しんで死ぬのに、難病患者や末期がん患者だけが救済される」という事で嫉妬心が刺激されてしまうのです。

病苦による自殺との反応の違いで矛盾が露わに

一つ、比較対象の題材として通常の自殺を考えます。日本の自殺者数は2万人で、そのうち2.5割程度が精神疾患以外の病苦を動機とするものです。即ち、毎年数千人が病苦で実際に自殺を遂げているのです。安楽死は基本的に自殺の一種と言えますから、難病患者や末期がん患者等の安楽死適用に反対する人たちは、毎年数千人規模で発生している病苦による自殺も問題視しなければおかしいことになります。「病苦で自殺するのは良いが、難病患者や末期がん患者等が安楽死という形で自殺するのはだめ」というのはハイレベルで矛盾を構成します。

 この点を、前述の嫉妬心で説明しようとすると上手くいきます。縊死などの通常の自殺では苦痛を高い確実性で取り除くのは難しく、実行するにあたっての恐怖感等の心理的ストレスも非常に高いです。自殺に成功すれば病気でじわじわと苦痛に苛まれるのに比べれば一瞬で終わるとはいえ、想定される苦痛や心理的負担も大きいため、「病死よりも良い」ということにはならず、一般層の嫉妬心は換気されないのです。前の記事までにも見てきたように矛盾だらけの安楽死反対論者達ですが、同時にそうした嫉妬心が自分達の中にないのか内省して欲しいところです。